2020年04月23日

年中行事 Ⅱ

四 月
 三日 桃の節句 雛人形を飾り菱餅を供ふ女子の初子ある家へは近親知己より雛人形を
贈りて祝意を表す。此風一時すたれたるも今また盛んに行はる。昔は三月三日にして松本雛といふもの流行せしこと河原綱徳の著書園柱茶話に見ゆ。
   予が幼き比は松木はと云もの行れたり立雛にて譬へば前に紙にて垣の形、うしろに梅の木、或は前に岩あり、うしろに松林といふ  類にて至って廉末なるものなり初節句の時出入りの婆或は取揚婆杯是を持来る雛棚へも上兼る程のものなれど志にて持来るもの故渠等の居る中ばかり飾置程のものなり今時は夫とは違ひて婆等が持来るも裸人形の・・・以下略
 八日、釈迦の誕生日なれば寺院は灌仏会を催す。
 産土神祭 旧松代藩の士族は白烏神社、其他は祝神社を産土神とす。而して白鳥神社の春季祭は十九日廿日、祝神社は廿三日廿川日に執行し来れるが大正十五年より祭日を統一すべく協議の結果春季は祝神社の四月二十三日、二十四日秋季は白鳥神社の祭日の十月二日三日を採用し両氏子同日に祭典を行ふこととなった。



五 月
 八十八夜、農家は種播をして後に遊ぶ風習あれど商家は平日と変わりがない。
 廿七日、海軍紀念日。


六 月
 端午の節句 菖蒲と蓬とを戸口先の屋根に挿み、且つ軒端に吊す。また餅を撒き菖蒲湯に浴する風あり、男子を挙げたる家にては親戚知己より贈られたる幟、槍、鯉の吹き流し武者人形等を飾り立てて祝ふ。

七 月
 土用丑の日、此日は鰻を食ふ風習あり。

八 月
 七夕祭 六日の夕暮枝付の青竹に、五色の短冊に七夕の歌など書きたるをつるして飾り瓜、茄子、南瓜等を供へて牽牛、淑女星を祭り七日の午後に至り川へ流す、此朝子供等千曲川へ行きて水泳す。之をおねんぶりを流すといふ。
 九日 四万八千日とて虫歌観世音參詣の善男善女にて賑ふ。
 盂蘭盆 十三日盆棚を飾り位牌を並べ茄子や胡瓜にて造りたる馬、ササゲ、南瓜、林檎、桔梗、女郎花等を供ふ。而して夕刻迎火とて家の門戸口と墓所にて樺の皮を焚きて墓參をなす。尚新佛ある家へは見舞にゆく等の習はしあり、十四日は焼餅を造りて食し。十六日の朝は佛に供へたるものを市外の所々へ捨て且つ夕方送り火と称し樺の皮を焚きて墓参すること迎え火の時に同じ、この日は麺類を製し佛前に供へて家内一同にて食する習俗がある。昔日は曳燈寵ということ流行せりといふ。
 二十七日、御射山祭の神事祝神社におこなわる。この日は朝食に小豆粥を炊き、青萱の箸にて食す乙風習あり。

参考
御射山祭 
 全国の諏訪神社の本宮である諏訪大社では、上社・下社それぞれに御射山祭が行なわれていました。旧暦の7月下旬、八ヶ岳山麓で巻狩、草鹿射ち、相撲などの武芸が行なわれたほか、里宮では御霊会風の行列が練り歩きました。御射山祭は鎌倉幕府の下知によって信濃国内に領地をもつ御家人すべてが回り番で費用を負担しました。
 祭りは武将ばかりでなく一般民衆にも見物が許され、身分の上下を問わない全国規模の大イベントだったのです。下社の御射山祭りは、室町時代に下社大祝の金刺氏が上社によって滅ぼされてからは衰退しましたが、祭典に集まった武士たちによって御射山祭の風習は全国に広められ、「ミサヤマ」と呼ばれる地名や神社が現在でも各地に残っています。
 御射山祭は二百十日に先立って山上で忌籠もりをし、いけにえとして動物を捧げることで祟りやすい山の神を鎮めて台風の無事通過を祈願するのが本来の目的だったといいます。
 諏訪神はもともと風よけの神として信仰されていました。諏訪大社には薙鎌と呼ばれる風封じの神器があります。これは五行説の「金克木」に基づいた思想であるといわれています。つまり金気である鉄鎌を、木気である木に打ち込むことにより、間接的に木気である風を封じこめようという呪法なのです。
 現在の例祭日は8月27日で、上社の御射山社は長野県八ケ岳の山麓にあり、下社は江戸時代初期に八島高原(長野県霧が峰高原内)から秋宮東北五キロ程の山中に移されました。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行うので穂屋祭りの名称があります。なお今では農作物の豊穣祈願と二才児の厄除健勝祈願を行うお祭りとなっております。



Posted by 孤独の旅人 at 16:25│Comments(0)種々のこと
 
 
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